Lesedi la Rona

フィクション、ノンフィクションが交わりあった短編や小説を書いています。

先生

先生と私が知り合ったのは、弟が病気をしてすぐの頃だった。私は小学三年ぐらい、先生は三十六歳だった。弟は原因不明の難病と言われ、田舎の病院をあちこち駆け回ったけれど、どこの医者もその原因を解明する事はできなかった。母親は泣きうなだれて失望し、盲学校や障害者施設を見学して歩いて、自分の息子の受け入れ先を探そうとしていた。

そんな折、あの奇妙な病の謎を解いてみせると申し出てくれた医者と出会った。それが、田中先生だった。先生は僕に三日ほど下さいと母に言った。三日後に母が先生に会った時、前回会った時と全く同じ格好をしていたから、きっとあの先生は寝ないで調べていたのだろうと母親は驚いていた。

弟の病気の原因は先生が調べてくれたお陰である程度特定できた。日本での実例はほとんどなく、世界中でも五例ぐらいしか報告されていない病だった。そして、確信のようなものはないけれど、とりあえずこの病気だろうという事で治療を開始するというような旨の話を親たちは聞いて帰ってきた。

入院している弟につきっきりだった母親が一週間ぶりぐらいに帰ってきた。帰ってきたと言っても、私が滞在していた祖母の家だった。祖母は心配して、畳の部屋でなくて自分のベッドで二人で寝たらどうかと提案してくれた。母と一緒のベッドで二人きりで寝るなんて、今までの人生にその一回ぐらいだったかもしれない。母親は普段弟の目の前ではいつも笑っていたのに、私の前では一晩中泣き続けていた。私に涙を見せまいと、私に背中を向けて泣き続ける母に私は何も声を掛ける事ができなかった。
ステロイドを大量に投与するその治療法によって、徐々に多幸感が出てきた弟は食欲も全開になり、いつもニコニコと笑いながら丸々と太った顔をくしゃくしゃにして笑っていた。その頃、同じ部屋の隣のベッドで入院していた男の子が亡くなった。白血病だった。その男の子の親二人は自分たちが病気の息子を目の前にしてどうする事もできなかった無力さを悔しく思っているというような話を何度も母親にしていたようだった。母親はその子供が亡くなって再び塞ぎ込んだ。私の父が母の代わりに病院に泊まると申し出ても、弟は譲らなかった。疲労感の募っている母を弟は離さなかった。父は、何でパパじゃダメなんや!と大きい声を出したけれど、それでも弟は動じなかった。

弟が死んでしまうかどうか、ちゃんと病気が治るのか、そんな事は小学生の私にはサッパリ分からなかった。とにかく、弟は半身不随になり、完全に失明していた。それでもテレビを見たがるし、おもちゃで遊びたがる普通の五歳児だった。何かワガママを言えば全てが許される、弟のそんな生活が始まったのはその頃からだった。そんな生活は今に至る。

私と父親が二人暮らしを始めて一カ月近く経った頃、父は大やけどを負った。普段料理なんてほとんどしない父親が料理を作っていた時の事だった。大きな火がワッとコンロの周りから立ち上がって、辺り一面が炎で包まれた。弟が失明している上に、父親までその火事で失うのかと一瞬とても不安な気持ちになった。すぐに病院に行くと火傷はそこまで深刻でないと医者が言っていたようだった。それでも、父親の片腕全体が爛れたようになっているのを包帯でグルグル巻きにされている姿を見るのは何だか痛々しかった。

その頃から、母親の目にはもう私が見えていないようだった。弟の事が心配過ぎて、母には弟という子供が一人いるだけで、私はお姉ちゃんなんだから、もう大人のように振舞いなさい、子供のように甘えてくるんじゃないと言うような無言のプレッシャーを感じていた。
「勉強でもしていなさい。あなたは勉強する事ぐらいしか能がないんだから。」
そんな言葉が母親の口癖だった。

火傷の事があったせいか分からないけれど、父親は魚料理を好んで作るようになった。毎日イワシ料理ばかりで時々、たまーに卵焼きを作るという、そんな日々が続いた。週末などに弟の入院する病院に行く時は父親も張り切って豪華な食事を作って、それを弟の病室で一家四人で食べたりしていた。その頃の一連の辛い思い出のせいで、私はイワシが大嫌いになった。元々そんなに好きではなかったけれど、入院費がかさんでいたのか、父親は毎日イワシを五尾と味噌汁とご飯とか、そういう決まったメニューばかり出してくるようになっていた。

弟が外泊や外出ができるようになるまで、どれぐらいの時間が過ぎていたのか細かい事は覚えていなかったけれど、週末に時々家族で出かける事ができる週があるようになってきた。ずっと免疫を落とす薬を飲んで無菌室にいた弟は、免疫の入った点滴を打って外に出ているはずにも関わらずどこに行っても熱が出たり風邪を引いたりしていた。退院できてからも、弟は足を骨折したりあちこち怪我をしたりして、しょっちゅう病院通いをしていた。

ある時、弟も随分良くなってからだったと思うが、弟が新幹線に乗って動物園に行きたいと母に言い出した。母親はなぜか、私にあなたは動物園が好きじゃないんだから、その日は田中先生とどこかに遊びに行けばいいじゃないと私を説得した。田中先生にはそれまで恋人がいたことが一度もない。京大の医学部を卒業という、その経歴だけは素晴らしかったけれど、人間としていろんなところが欠けている人だった。きっと、先生が懇願して私とどこかに出かけるという約束を取り付けてきたのだろう。本来なら親がそんなことにならないように守ってくれるのでは?と思ったけれど、うちの親はよその親とは全く違う感覚と常識の持ち主だった。

先生と出かけるまではそこまで深刻に考えてもいなかったし、何といっても弟の命を救ってくれた人でいくら感謝しても感謝しきれないほどの恩があったし、それまであまり国内旅行なんてしたこともなかっから、少しだけ楽しみぐらいに思っていた。けれど、実家の近くの駅から乗り込んだ電車で、始めて先生が私に言った言葉で私は体が凍りついた。
「今日はね、僕の事はお父さんって呼ぶんだよ。そうじゃないと他の人に怪しまれるからね。」
お父さん?最初、その会話の意味が理解できなかった。確かに、うちの親はそれをデートと呼んでいたけれど、これは明らかに誘拐という名の犯罪なんだとその時に気がついた。誘拐と言っても私の親の承諾だけは得ているので、例え捕まったとしてもきっと大事にはならなかっただろう。

そのあと、どこをどう移動してどこに行ったのか、全く記憶には残っていないけれど、朝から夕方までそのデートは続いた。先生は終始私の写真をたくさん撮っていた。先生自身は被写体にはなろうとせず、ただひたすら私の顔のアップを撮っていた。私はそんな風に写真を撮られる時に一体笑えばいいのか、悲しそうな顔をすればいいのか、よく分からなくてその日の写真を今になって見るとその写真の全てがはにかんだ笑顔をしていた。

年の差は地球と月ほどの差があったけれど、私が思うに精神的には私はすでにその時、かなり大人に近かったように思う。逆に、先生はまだ小さな子供のようだった。先生の食べたいと言う食事や軽食に付き合い、話を聞いてあげるだけで先生はこの上なく喜んでいるようだった。けれど、私はこんなデートに付き合わされた事を正直恨んでいた。こんな茶番に付き合えと言った母親にも腹が立っていたし、まんまと今日の計画にこぎ着ける事のできた先生の事も恨んでいた。夕方になるに連れ、そのムカムカとした気持ちが大きくなってきていた。何か、私なりの復讐をしてやりたいと考えていた。
「ねえ、お父さん。」
私がそう話しかけると、先生は嬉しそうに振り返った。
「今日の記念になんか買ってよ。」
へ?先生は度肝を抜かれたような顔をしていた。
「お父さん、お医者さんなんでしょ?何か買ってくれてもいいじゃん。」
先生は何が欲しいのかと私に聞いてきた。何か可愛いものを買って欲しいと頼んだ。ぬいぐるみとか?お人形さんとか買う?と聞いてくる先生に、私はこう答えた。
「誕生石のルビーが入ってるピアスがいい。」
は?先生はその単語のどの一つも理解できていないようだった。それっぽい店に入って値段を見た先生は更に驚いていた。
「こんなに高いよー。まだ小学生なんだし、早いでしょう。出よう出よう。」
そんなことない、と私は譲らず、その商品を買ってもらうことに成功した。

あー、何だかスッキリ。そう思って家に帰った。そのピアスは特に大事にもしなかったから、今ではどこに行ったのかも分からない。

先生からは二度とデートの誘いはなかった。純粋な子供に見えていた女の子が大人の女と変わらずしたたかだった事にきっとそれなりのショックを受けたのだろうと思った。あんなに気持ち悪かったんだから、私とデートできただけ良しとして欲しいもんだわ。私はそんな事を考えていた。その日一日の私の苦痛を考えたら、あんな物しか買ってもらえなかったのはまだ生易しかったかもしれない。けれど、それ以上に何か意地悪な事を思いつくような脳みそも持ち合わせていなかった。まあいいや、別に私の体に触れたとか手をつないできたとかでもないし。そう思うと、私の怒りもそこまででなくなった。

結局、先生は数年して四十になる頃に先生の母親が傾倒している新興宗教の関係で知り合った人とお見合いをしたという噂を聞いた。今では地元で父親の経営していた病院の後を継いで、奥さんや子供に囲まれて暮らしているらしい。あんな人でも幸せになれるのか。何だか意外なニュースだった。まあ、良い遺伝子が欲しいと思う女性もきっと世の中にはいるんだろう。そんな事を考えていた。

その頃から私の家には先生から連絡がなくなった。新興宗教を信じ込ませるために、先生の親がそのように画策したらしい。

私にしたら、それが人生初めてのデートだった訳だから、忘れようとしてもなぜか忘れる事もできなかった。先生の、帰りの電車で嬉しそうにしていたあの笑顔を時々思い出す。