Lesedi la Rona

フィクション、ノンフィクションが交わりあった短編や小説を書いています。

みーさん

いつかあの人の事を書くときがくるのだろうといつもそう思っていた。その人は実在の人物なので実名を挙げることはできないが、まわりの皆からはみーさんと呼ばれている人だ。京都の藝術界の人間で、彼を知らない人はいないだろう。私は彼のことを早く死んでしまえばいいのにとか思うぐらい毛嫌いしているのでこの人生で二度とお目にかかりたくないと思っている。もしも、これを読んでいる人で物好きな人がいて彼に会いたいと思うならば、きっと今日も木屋町先斗町界隈で呑んだくれているだろうから、ふらふらとそこら辺を歩いている間にバッタリと出くわしたりすることができるかもしれない。

彼はとても才能のある芸術家であると思うし、何より頭の回転が早くただモテたくて始めましたみたいな、普段は女のヒモをしていてその日暮らしの生活をしているというだけの部類の人たちとは少し一線を画しているように思う。もちろん、彼自身はヒモでないかと言われればもちろんヒモの部類に入ってくるだろう。彼には真面目な仕事に就いている奥さんがいて、みーさんに何があっても彼を支えるという献身さでみーさんもこれまで何とか死なずに生きてこれたのだろうと思う。

みーさんの特徴を語るとき、そのユーモアに溢れる会話術を抜いて彼のことを語る事はできないと思う。元々、学力も高く、大学を出てすぐは商社かどこかに勤めていたと聞いた事があったが、それを聞いても何も違和感を感じないほどの体力や知力の持ち主であると思う。彼の体型を見ても、芸術家によくあるようなヒョロヒョロとした病的さはなく、特に顔の色が悪いわけでも猫背でもなかった。黙っている瞬間というのが彼にはほとんどないのだからまずそんな場面に出くわすという事はないに等しいけれど、もしも何も話さず黙り込んでいる彼を見る機会があるとすればきっと普通の役職のあるサラリーマンに見えるのかもしれないと思う。

では、なぜにこうもみーさんが変人なのか、変人になってしまったのか。私は小さな頃よりみーさんに可愛がられて育ってきた。長年みーさんを家族のように慕っていたし、たくさんの良い思い出もある。それと言うのも私の両親も芸術家で、夏になると海を目当てに北上してくるみーさん家族と一緒に海へ行ったりするというのが我が家の定番の夏の過ごし方だったからだ。夏と言えばみーさん、というぐらいたくさんの楽しい思い出を残してくれたおじ様でもある。まだ心のどこかでは、私もみーさんのことを信じたいと思う気持ちがなくはないけれど、しかしやっぱりその言動に許せない点が多すぎるというのはやはり問題である。そして、彼が変人にしかなれなかった、芸術以外のことをすることができなかった、その不器用さみたいなものを許容してあげれるほど私は器が大きい人間ではないなと思う。彼の奥さんも結局、熟年になって彼と離婚する事を決めたように、私も彼の事を信じたりするよりもいっそ見捨ててしまった方が自分の気持ちが軽くなる事に気がついている。

けれど、私が彼を見切るというのは奥さんが離婚するのとは全く違う種類のものだ。彼は本質的には私と同質同類の人間で、私は彼とあの断崖絶壁に立っているという話ができるまで、その問題の断崖絶壁に立たされたまま長年ずっと苦悩し続けていた。そう、彼こそが私の孤独を救ってくれた人であると言ってもいいのかもしれない。という事は、たぶん、裏を返せば私だって変人の部類に入るのかもしれない。けれど、私と彼とは根本的に違う点がある。それは、彼は自分の中にある特質が外に現れる時に全て陰陽でいうところの陰の方向で発現してきて、私はその真逆の陽の方向で発現してくるという事だ。そして、そこが違うだけなのに、私たちの人生は全く違う歩み方になっている。

みーさんには、小さい時から病気がちの母親がいた。彼女の看病をするために学校を早く抜け出して、いつもその母親の病室のベッドの下で本を読んだりしていたと以前話していた。「その頃はワシも外に遊びに行きたいと思うてたしなー。何で俺だけこんな思いして看病せなあかんのやといつもくそ母親のせいで、腹立つーと思うてたんやろうな。」みーさんは、そんな風に母親の話を始めた。「京大の大学病院てな、今でこそあんなんやけど当時まだその頃は精神病棟とかもあったし、ロボトミーとかみたいな変な手術受けて廃人になってる人やらな、今では想像のつかんような場所やったんや。」「ある日母親が本当に死んでしまうまで、俺はずっと、そんな死んでまう死んでまう言うてないでもう早よ死んでまえば俺も遊んだりできるのにー、ぐらいに思うとった。そしたら、本当にある日ぽっくりと死んでしもうてねー」ため息を吐きながら、彼は片手に持っていた焼酎の入ったコップをすすった。「俺が呪い殺してしもたんかなー、みたいなな。まだ俺も小学生やったし、初めは何も理解できんかってただひたすら泣いてて、すいません、神様、俺が殺してほしいとか神様に言わんかったら俺のとこにおかーちゃん戻してくれますか?って、何度も頼んでたなー。」そう言うと、小さな涙が瞳に溜まりはじめ、みーさんはタバコを挟んでいる手の甲で、その涙を拭き払った。

その、彼の原点を聞いてから、私の中でずっと疑問に思っていた彼の数々の武勇伝に対する違和感が消えた。武勇伝の中には大小いろんなものがあり、どこまでが本当なのかも分からなかったが、彼が死ぬことや怪我することや人や自分を傷つけることに対して何の恐れも抱いていないのは、きっと彼がこう言っていた事とつながるような気がした。「おかーちゃんが帰ってこんのなら、もう俺はいつ死んでもいいんやなってそう思てる。そやけどなかなか死ねんもんやな。いつも死にたいと思てると、今度はなかなか死なせてもらえんな。」

彼は、人生において何度も犯しては絶対にいけないことを自ら楽しんで犯してきたようなところがあった。そのせいで、社会の中にも家庭の中にもどこにも彼の居場所がなくなっていた。「もう離婚もしたしな。この世への執着みたいのも、もう何もないんやし、あー死ねるわって思うてな、車運転してる時にふとそう思ったらスピードがスーッと上がっていくのよ。何キロになった頃か分からんけど、前の車とパーン!とぶつかってなー。それでも死ねんかってん。俺アホでないかと思うたわ」そんなに死にたい死にたいと笑顔で言う人もなかなかいないなと、何だか自殺未遂の話を聞いているのにあんなに笑える話になるのもおかしいなと思ってその話を聞いていた。

私が初めて彼に自分の心の中の情景を語った時、その時のみーさんの反応に正直私は驚いていた。私はなせだったかは忘れたけれど、当時非常に落ち込んでいてそれこそいつ自殺してもおかしくないみたいな気分の時だった。その日は確か大晦日で、家には家族が集まっていたが、そんな場所にアポなしでたくさんのお酒を持って来て、お酒を飲まない私の父に向かって「よりちゃん、飲もうや!」という、見当違いなセリフを言って飲みたいだけ飲んで話したいだけ話すというやり方で、年に一度という家族の団欒の日を完全に破壊してくれたのは良い思い出だ。泥酔したみーさんは、私の今の顔が青ざめたようになっていて、それがこの上なく美しいと熱弁を始めた。「ちょっと、一枚だけでもええから、サラの顔だけでもここに写させてもらえへんかなー」赤ら顔のオヤジに自分の肖像画を描かせるのは人生初だったけれど、まあ、それも悪くないと思い、描いてもらう事にした。

でもこれが、想像を絶する事になった。彼はカランダッシュの平凡な水性クレヨンと、平凡な画用紙一枚をカバンから取り出した。私の頬骨をスーッと指でなぞりながら、黒のクレヨン二本のうちの一本を自分の口に咥え、もう一方のクレヨンで殴りつけるように描いていく。線が引かれると指を口の唾液で濡らして、更にその線をボカしていく。「サラ、お前は本当に今最高の顔をしてるぞ。絶世の美女っていうのは、こういうのを言うんやな。この世に何の未練もない、その目つきといいな、その血の気のない肌といいな、もう幽霊みたいな美しさや。雑味が全て削ぎ取られて、もう彫刻みたいな輪郭になっとる。」私はただ自分の顔をまじまじと見られて描き写されているだけなのに、何だか裸にされたような衝撃が走った。「サラ、今度はヌードで俺は描いてやりたいなー。やってみーひんか?」と、私が誘いを受けていた頃、はじめてうちの母親が口を出した。「みーさん、いい加減にしてや。」ピシャリと冷たく言うその母の声を聞いてはじめて、私もハッと我に返った。自分ももしかすると彼の迫力に押されて、彼の世界にグイグイと引きずり込まれていたのかもしれない。そして、どうせもう裸にされたようなもんなんだから、ヌードぐらい…と考え始めていた私の思考にも一気にブレーキがかかった。おうっと危ない。これは新手のナンパみたいなものだと気がつかなきゃと、自分に言い聞かせた。

みーさんが冷静を取り戻し、しっかりと絵を書き終えた後で私は、彼といろいろな話をしていた。「サラ、お前失恋でもしたんか?何で悩んでるんや」そう言いながら、みーさんは酒のツマミになるような面白い話を待っているようだった。「今は私、断崖絶壁に立たされている気分で、自分が一人で孤独で、周りも何も見えなくて、ただ下に落ちる崖が見えているだけで、本当に他のものが何も見えない。」そう私が彼に話すと、彼は頷いた。「俺のずっと見てきた風景やな。暗いけど、真っ暗でない。黒でなくて黒と赤の混ざったようなな、下にマグマのような川があったりしてな。まあ、細かい所はその時々で変わったりするんやけど、大体俺もお前と同じ風景を見てきた人間やな。結局、お前と俺は同類になるんやろな。」そう言うと、頭を下に項垂れるようにして、少し黙り込んだ。「でもな、サラ。お前は孤独でも一人でもないんや。少なくとも、ここにお前の分身みたいなオッサンがおる。オッサンは真剣に死ぬことを考えてきた。死ぬことに執念を持って生きた。でも、やっぱりな、オッサンはお前には生きてて欲しいと思うな。その感性で何を生み出せるか、それがお前の腕の見せどころやろな。」泥酔した変人というオッサンにしては、意外にも、それも最もだなと言いたくなるような、真っ当な意見が飛び出した。

けれど結局、私ですら彼を許せないと言うのは、やはり彼自身に問題があるのだろうと思う。みーさんには、自分の大切な人を大切にする事ができないという大きな欠陥がある。その理由も私は知っているし、自分がこの世に未練があっては死ねないから、この世の人間たちとの関わりは時々全て踏み潰してしまって、静かに死んでいきたいという衝動に駆られてしまうのも、彼の性みたいなものなのかもしれない。けれど、彼を信じようとしている人を裏切る行為を繰り返すみーさんを、私は段々と許せなくなってしまった。同じ本質を持つ人間として、見捨てたりしないで助けてあげたいと思うけれど、彼のようにもう死にたくてしょうがない人間からすると、私のような助けようとする人間は邪魔らしい。そうやって傷つくことにももう疲れたので、私は電話がきても話さないし、会いたいと言われても会いに行くことはない。そして、早く死んで欲しいと思う。彼が本当にしたい事は、きっと早く死んでしまって、自分のお母さんに対する申し訳ない気持ちから開放されることなのだろうから。そして、あの世でお母さんとまた再会したいのかもしれない。

先生

先生と私が知り合ったのは、弟が病気をしてすぐの頃だった。私は小学三年ぐらい、先生は三十六歳だった。弟は原因不明の難病と言われ、田舎の病院をあちこち駆け回ったけれど、どこの医者もその原因を解明する事はできなかった。母親は泣きうなだれて失望し、盲学校や障害者施設を見学して歩いて、自分の息子の受け入れ先を探そうとしていた。

そんな折、あの奇妙な病の謎を解いてみせると申し出てくれた医者と出会った。それが、田中先生だった。先生は僕に三日ほど下さいと母に言った。三日後に母が先生に会った時、前回会った時と全く同じ格好をしていたから、きっとあの先生は寝ないで調べていたのだろうと母親は驚いていた。

弟の病気の原因は先生が調べてくれたお陰である程度特定できた。日本での実例はほとんどなく、世界中でも五例ぐらいしか報告されていない病だった。そして、確信のようなものはないけれど、とりあえずこの病気だろうという事で治療を開始するというような旨の話を親たちは聞いて帰ってきた。

入院している弟につきっきりだった母親が一週間ぶりぐらいに帰ってきた。帰ってきたと言っても、私が滞在していた祖母の家だった。祖母は心配して、畳の部屋でなくて自分のベッドで二人で寝たらどうかと提案してくれた。母と一緒のベッドで二人きりで寝るなんて、今までの人生にその一回ぐらいだったかもしれない。母親は普段弟の目の前ではいつも笑っていたのに、私の前では一晩中泣き続けていた。私に涙を見せまいと、私に背中を向けて泣き続ける母に私は何も声を掛ける事ができなかった。
ステロイドを大量に投与するその治療法によって、徐々に多幸感が出てきた弟は食欲も全開になり、いつもニコニコと笑いながら丸々と太った顔をくしゃくしゃにして笑っていた。その頃、同じ部屋の隣のベッドで入院していた男の子が亡くなった。白血病だった。その男の子の親二人は自分たちが病気の息子を目の前にしてどうする事もできなかった無力さを悔しく思っているというような話を何度も母親にしていたようだった。母親はその子供が亡くなって再び塞ぎ込んだ。私の父が母の代わりに病院に泊まると申し出ても、弟は譲らなかった。疲労感の募っている母を弟は離さなかった。父は、何でパパじゃダメなんや!と大きい声を出したけれど、それでも弟は動じなかった。

弟が死んでしまうかどうか、ちゃんと病気が治るのか、そんな事は小学生の私にはサッパリ分からなかった。とにかく、弟は半身不随になり、完全に失明していた。それでもテレビを見たがるし、おもちゃで遊びたがる普通の五歳児だった。何かワガママを言えば全てが許される、弟のそんな生活が始まったのはその頃からだった。そんな生活は今に至る。

私と父親が二人暮らしを始めて一カ月近く経った頃、父は大やけどを負った。普段料理なんてほとんどしない父親が料理を作っていた時の事だった。大きな火がワッとコンロの周りから立ち上がって、辺り一面が炎で包まれた。弟が失明している上に、父親までその火事で失うのかと一瞬とても不安な気持ちになった。すぐに病院に行くと火傷はそこまで深刻でないと医者が言っていたようだった。それでも、父親の片腕全体が爛れたようになっているのを包帯でグルグル巻きにされている姿を見るのは何だか痛々しかった。

その頃から、母親の目にはもう私が見えていないようだった。弟の事が心配過ぎて、母には弟という子供が一人いるだけで、私はお姉ちゃんなんだから、もう大人のように振舞いなさい、子供のように甘えてくるんじゃないと言うような無言のプレッシャーを感じていた。
「勉強でもしていなさい。あなたは勉強する事ぐらいしか能がないんだから。」
そんな言葉が母親の口癖だった。

火傷の事があったせいか分からないけれど、父親は魚料理を好んで作るようになった。毎日イワシ料理ばかりで時々、たまーに卵焼きを作るという、そんな日々が続いた。週末などに弟の入院する病院に行く時は父親も張り切って豪華な食事を作って、それを弟の病室で一家四人で食べたりしていた。その頃の一連の辛い思い出のせいで、私はイワシが大嫌いになった。元々そんなに好きではなかったけれど、入院費がかさんでいたのか、父親は毎日イワシを五尾と味噌汁とご飯とか、そういう決まったメニューばかり出してくるようになっていた。

弟が外泊や外出ができるようになるまで、どれぐらいの時間が過ぎていたのか細かい事は覚えていなかったけれど、週末に時々家族で出かける事ができる週があるようになってきた。ずっと免疫を落とす薬を飲んで無菌室にいた弟は、免疫の入った点滴を打って外に出ているはずにも関わらずどこに行っても熱が出たり風邪を引いたりしていた。退院できてからも、弟は足を骨折したりあちこち怪我をしたりして、しょっちゅう病院通いをしていた。

ある時、弟も随分良くなってからだったと思うが、弟が新幹線に乗って動物園に行きたいと母に言い出した。母親はなぜか、私にあなたは動物園が好きじゃないんだから、その日は田中先生とどこかに遊びに行けばいいじゃないと私を説得した。田中先生にはそれまで恋人がいたことが一度もない。京大の医学部を卒業という、その経歴だけは素晴らしかったけれど、人間としていろんなところが欠けている人だった。きっと、先生が懇願して私とどこかに出かけるという約束を取り付けてきたのだろう。本来なら親がそんなことにならないように守ってくれるのでは?と思ったけれど、うちの親はよその親とは全く違う感覚と常識の持ち主だった。

先生と出かけるまではそこまで深刻に考えてもいなかったし、何といっても弟の命を救ってくれた人でいくら感謝しても感謝しきれないほどの恩があったし、それまであまり国内旅行なんてしたこともなかっから、少しだけ楽しみぐらいに思っていた。けれど、実家の近くの駅から乗り込んだ電車で、始めて先生が私に言った言葉で私は体が凍りついた。
「今日はね、僕の事はお父さんって呼ぶんだよ。そうじゃないと他の人に怪しまれるからね。」
お父さん?最初、その会話の意味が理解できなかった。確かに、うちの親はそれをデートと呼んでいたけれど、これは明らかに誘拐という名の犯罪なんだとその時に気がついた。誘拐と言っても私の親の承諾だけは得ているので、例え捕まったとしてもきっと大事にはならなかっただろう。

そのあと、どこをどう移動してどこに行ったのか、全く記憶には残っていないけれど、朝から夕方までそのデートは続いた。先生は終始私の写真をたくさん撮っていた。先生自身は被写体にはなろうとせず、ただひたすら私の顔のアップを撮っていた。私はそんな風に写真を撮られる時に一体笑えばいいのか、悲しそうな顔をすればいいのか、よく分からなくてその日の写真を今になって見るとその写真の全てがはにかんだ笑顔をしていた。

年の差は地球と月ほどの差があったけれど、私が思うに精神的には私はすでにその時、かなり大人に近かったように思う。逆に、先生はまだ小さな子供のようだった。先生の食べたいと言う食事や軽食に付き合い、話を聞いてあげるだけで先生はこの上なく喜んでいるようだった。けれど、私はこんなデートに付き合わされた事を正直恨んでいた。こんな茶番に付き合えと言った母親にも腹が立っていたし、まんまと今日の計画にこぎ着ける事のできた先生の事も恨んでいた。夕方になるに連れ、そのムカムカとした気持ちが大きくなってきていた。何か、私なりの復讐をしてやりたいと考えていた。
「ねえ、お父さん。」
私がそう話しかけると、先生は嬉しそうに振り返った。
「今日の記念になんか買ってよ。」
へ?先生は度肝を抜かれたような顔をしていた。
「お父さん、お医者さんなんでしょ?何か買ってくれてもいいじゃん。」
先生は何が欲しいのかと私に聞いてきた。何か可愛いものを買って欲しいと頼んだ。ぬいぐるみとか?お人形さんとか買う?と聞いてくる先生に、私はこう答えた。
「誕生石のルビーが入ってるピアスがいい。」
は?先生はその単語のどの一つも理解できていないようだった。それっぽい店に入って値段を見た先生は更に驚いていた。
「こんなに高いよー。まだ小学生なんだし、早いでしょう。出よう出よう。」
そんなことない、と私は譲らず、その商品を買ってもらうことに成功した。

あー、何だかスッキリ。そう思って家に帰った。そのピアスは特に大事にもしなかったから、今ではどこに行ったのかも分からない。

先生からは二度とデートの誘いはなかった。純粋な子供に見えていた女の子が大人の女と変わらずしたたかだった事にきっとそれなりのショックを受けたのだろうと思った。あんなに気持ち悪かったんだから、私とデートできただけ良しとして欲しいもんだわ。私はそんな事を考えていた。その日一日の私の苦痛を考えたら、あんな物しか買ってもらえなかったのはまだ生易しかったかもしれない。けれど、それ以上に何か意地悪な事を思いつくような脳みそも持ち合わせていなかった。まあいいや、別に私の体に触れたとか手をつないできたとかでもないし。そう思うと、私の怒りもそこまででなくなった。

結局、先生は数年して四十になる頃に先生の母親が傾倒している新興宗教の関係で知り合った人とお見合いをしたという噂を聞いた。今では地元で父親の経営していた病院の後を継いで、奥さんや子供に囲まれて暮らしているらしい。あんな人でも幸せになれるのか。何だか意外なニュースだった。まあ、良い遺伝子が欲しいと思う女性もきっと世の中にはいるんだろう。そんな事を考えていた。

その頃から私の家には先生から連絡がなくなった。新興宗教を信じ込ませるために、先生の親がそのように画策したらしい。

私にしたら、それが人生初めてのデートだった訳だから、忘れようとしてもなぜか忘れる事もできなかった。先生の、帰りの電車で嬉しそうにしていたあの笑顔を時々思い出す。